会津木綿とは
戦国大名の蒲生氏郷が綿花栽培と共に、前任地の伊勢松坂の綿織物「松坂木綿」の製織技術を伝えたのが会津木綿の始まりとされる。その後、江戸時代初期に、加藤嘉明が前任地の伊予松山から織師を招き、伊予絣の織物技術と「伊予縞」と呼ばれる縞柄を基調とするデザインを継承した会津木綿が生まれた。
寛永20年(1643年)に藩主となった保科正之が綿花栽培と木綿織物の生産を奨励したため農家婦女子の農閑期の副業や藩士妻女の内職仕事としての機織りが盛んになり、会津は綿織物の生産地として発展し、会津木綿は会津藩の特産品として広く普及していった。
色とりどりの縞柄を
織り上げる木綿平織の技
会津木綿は経糸に2色以上の色糸を使って縞模様を織る木綿織物である。平織は経糸と緯糸を交互に組み合わせて織る基本的な製織法であり、丈夫な生地が織れる。
当社では、経糸に単糸や双糸、シルケット加工糸とさまざまな色糸を組み合わせ、緯糸にふし糸を使うことで、多彩な縞柄模様の反物を制作している。
丈夫で厚手の生地が
会津人の暮らしを包み込む
会津地方は日本での綿花栽培の北限とされるが、寒冷地で栽培された綿花の綿は繊維が短くなり、紡いだ糸が太くなって厚手の生地になる。そのため、西日本系の綿織物に比べて丈夫で厚みがあるのが特徴である。厚手の木綿生地は緯糸のふくらみによって空気を多く含み、保温性、吸湿性に優れる織物となる。暑さ寒さの厳しい会津盆地の気候に合うよう発展してきた綿織物である。
使い続けてきた自動織機だから
織り出せる素朴な風合い
明治以降は力織機による大量生産が始まり、最盛期を迎えた大正時代には約30軒を数えた会津木綿の工場も、現在は会津若松市内に2軒、会津坂下町に1軒を残すだけとなっている。
当社の製織工場では、糸繰り機や整経機と共に、昭和初期から使い続けている年代物の自動織機(豊田式力織機)が現役で稼働しており、会津木綿特有の風合いを生み出している。